神通寺 住職の日記(旧タイプ)

2014年までの記録保存用です。

ご法事で、仏法談義。

先日のご法事で、久しぶりの仏法談義。
おふるまいの席で、いろいろとお話しをさせて頂きました。

お相手は、施主の娘婿の父親。
つまり、私とはあまり面識がなく、お手次も全く違うお寺さんです。
とはいえ、真宗の流れをくむお寺さんがお手次ですので、
阿弥陀経も、お正信偈も、節は違えど親しんでおられます。

お酒を差しつ差されつ、だんだんとホンネがちらり。
「なあ、お寺さんってのはなあ、大変だよなあ。
いつも、ご門徒さんから見られてるんだよなあ。
でもな、大変だけど、すっごく期待されてるんだぞ。
うちのご院さんも、ご法事ではいいことを話されるんだけど、
普段の評判が良くないんだよなあ。
そうすると、聞いてても話の実感が伝わらない。
同じご法話でも、ご院さんの人格を通して話が伝わるわけだから、
あなたの人格が、実はそのままご法話なんだからね。」

イヤ、参りました。
その通りなんですね。
私がどんなに立派で尊いお話しをしても、
それはあくまでも、私の人格を通して伝わるんです。
だから、自分をはずしたところで語る言葉は、
聞き手の耳を素通りするどころか、
反発すら招くこともある。
「仏法は、こういう人格を形成する教えなのか。」
それがすごく耳に痛く響きました。

で、お話し下さった方は、こう続けられたのです。

「でもな、信用できるあるご院さんにこの話をしたら、
こう言われたんや。
『お念仏は、誰かを見るために称えるんじゃないよ。
自分の姿を見つめるために称えるんや。
南無阿弥陀仏を称えて、自分を見つめる。
そこに、ホントのお念仏があるんやで。』
そういわれて、初めてお念仏の意味がわかった。
ああ、お念仏で、周りの人を断罪している自分の姿がここにあったなあ。
ホントに問われるのは、私だったんだなあ。
だから、お念仏は、私にとって、なくてはならないものなんだなあ。」

そういって、語りながら涙ぐまれました。

私は、人生に何度とない、とても尊い出遇いができたことがうれしかった。
本当に、このご法事に参加できて、うれしかった。

お念仏は、自分の手柄じゃないんですよね。
称えるままが、阿弥陀様のおはたらき。
私を案じ、私を願い、そして私を絶対に捨てることがないというはたらきがこもった、
尊い尊い、お呼び声なんです。
そのことを、再認識しました。
良い出遇いをさせてもらったことをよろこびながらの、美味しいお酒でした。