神通寺 住職の日記(旧タイプ)

2014年までの記録保存用です。

京都のお仕事ついでに、プチ同窓会。懐かしの顔に逢ってきました。

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今日、西山別院にて、教師教修の話し合い法座へおでかけ。
これから住職になろう、という僧侶の方々と、
話し合い法座の一日を過ごしてきました。

若い方もおられますが、60代の女性も参加しておられます。
基幹運動、特に同和問題などの差別について、
それぞれの思いを語って頂きながら、
今後の歩むべき方向性について共に考えてゆく機会となりました。

立っている位置はそれぞれ違いますが、
どういう方向を向いて歩んでゆくのか、ということは共有できると思うんですね。
「差別はなくならないから仕方ない」という方向を向くのか、それとも
「差別をなくしてゆきたい」という方向を向いてゆくのか。
自分の体験した傷み、苦しみを通して、
周りの人が抱えている傷み、苦しみに共感し、聞いてゆける僧侶でありたい。
そんな共通認識を持てた気がする。

ただ、昨今の同和行政については、いろんな批判がありますよね。
差別をなくしたいという取り組みだったはずなのに、
現実にはそう機能していないのはなぜなんだろう??

差別解消に向けての取り組みだったものが、現実にどうなっているのかというと、
「~してあげている」という取り組みと、
「~してもらって当然だ」という受け止めになっていないだろうか。
そこには、かつて西光万吉が高々と掲げた人権宣言の「こころ」が抜け落ちていないんだろうか。
僧侶や自治体職員、あるいは教師として、
一生懸命差別解消の取り組みをしている人ほど、
現実の同和行政の取り組みに失望したり、違和感を感じている人が多いという
新たな気付きもありました。

思うに、そういった失望や違和感をきちんと発言できる場がなかなかないんですよね。
差別問題の取り組みということに関しても、
当事者の中で、何らかの「タブー」みたいなものを
自分たちの間で作り上げているのかも知れない。
大切なのは、疑問に思ったことを素直に問い、聞ける場があるということ。
そうすることで、運動の本質が常に問い返されて、
「運動のための運動」に陥らないですもんね。
自分で問いを立て、考えた上で行動することは、
すごく大切なんだと再確認してます。
その意味で、今日の教師教修の話し合い法座は、
とても中身の濃い、大切な気付きを共有できた場でありました。

ちなみに、昨日の晩に京都へ入り、
大阪の連れも合流して、4名のプチ同窓会。
かなりのハイテンションでお酒をいただきました。
ハイテンションすぎて、
居酒屋のトイレのタンクを壊しちゃったのが、約1名。(^^ゞ
酔っぱらっているときは、足元の段差に気を付けましょう。(^_^;)