神通寺 住職の日記(旧タイプ)

2014年までの記録保存用です。

再度、「正義と真実」のコラムについて。

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先日紹介した、本願寺新報のコラム。
もともと、寺報で掲載したご法話を、
加筆・訂正したものです。
「正義」がよくないということではなく、
「自己中心の正義」が、差別を見えなくしてしまうのでは、
という思いの中で、文章を載せました。

これを読んでくださった、同朋運動の先輩から、
こういうご指摘をいただきました。

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医療従事者が「障害を抱えたいのち救いたいという願いと努力によって実現され
た・・・」との文面がありますが、これでは多くの最先端医療に取り組む医療従
事者が、障害の有無によって、その内実が変化する、とも読み取れるのではない
でしょうか。
障害の有無ではなく、それぞれ固有の状況に対してあらゆる可能性を探りながら
治療に当たっているのであって、障害の有無をことさら重要視しているのではな
いと思います。
その前提として、私の知り合いが看護師であり、この文章を読んで「『障害は個
性』と表現した乙武 洋匡さんのように、全てのいのちに向き合うのが医療従事
者であり、障害の有無で判断していない」と言っていました。私もそう思います。
市長を批判するのは当然として、批判する材料として高度先端医療に関わる人た
ちの願いにまで配慮がないと不自然だし、この点は朝戸さんの思いであって、実
際の現場の人たちの声を聞き、そこから展開する必要があると思います。結果的
にこの文章では医療従事者が機能障害の人たちを特別視していることになってし
まいます。

さらに、この文章を読んだ実際に機能障害を持つ人たちはどう感じるでしょう
か?
機能障害だけでなく、さまざまな疾病にはそれぞれの特徴・原因があるのであっ
て、未だ原因不明の病は数多く存在します。しかし、この文章では、ことさらに
「機能障害」というものだけが逆にClose Upされています。「特別視」され、
「やっぱり大変なんだ」との印象を持たれることになりませんか?
社会の中では厳然として「障害」はマイノリティであり、被差別者です。同朋運
動は被差別者の差別に対する抗議・声から始まった運動です。真実をよりどころ
としながら、被差別者の声を聞くこともなく、差別に荷担してきたのが教団・僧
侶です。
とかく比較対象として「障害」が布教・法話の材料として登場します。この時点
ですでにいわゆる健常者(適切ではないが、他の言葉が思い当たらないので使い
ます)が普通で、障害を持つ人たちが「普通でない人」になってしまいます。
御同朋・御同行と仰ったのは、事実そうなっていない現実があったからでしょう。
「そんなつもりはない」と言っても、事実社会ではそう思考する人たちが多いの
です。その人たちからすれば、「やっぱりな、かわいそうだな、助けてあげない
と」と受け止めるのです。その点において、より慎重な配慮が必要だと思います。

市長の思考・発言は論外ですが、そのコメントを例に、機能障害に苦しむ人たち
がまた材料にされ、社会でのマイナスイメージ・差別的思考を否定することなく、
教えに結びつけて「自らを見つめなければならない」という発想は、僧侶の側の
身勝手な思考となりませんか。そこに置き去りにされるのはいつも被差別者です。
差別されたまま、足を踏まれたままで、謝罪もなく・・・・・・。

布教・法話の題材に、とかく「障害」の有無が使われます。個人的には使うべき
ではないと考えます。障害の有無でしか語れない法話ってあるでしょうか。題材
にすること自体が、前述の通り比較の対象であり、そもそもスタートから平等で
はありません。
今回の場合、市長発言が題材になっているためその部分に触れざるを得ないとは
思いますが、それでも他に切り口はあったのではないかと思います。例えば、市
長発言は論外としても、少なくとも社会的な障害に対する認識はこの市長発言と
同様であり、個人の問題だけでなく社会全体に提起する視点も必要であるとかな
どなど。
話し合い法座での意見に「差別していることが見えなくなる」というところから、
教団の体質とかを問うことも出来たでしょう。

思いつくままにkeyboardを叩きました。失礼かなとも思いつつ、黙っておくのも
変だし、正直違和感があったのでお知らせすることにしました。
相変わらずキツイ言い方、書き方しかできませんことご容赦くださいませ。

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ご指摘を受けて、
あらためて自分の文章を読んでみました。
気がついたのは、
「障害を抱えたいのちを救いたいという、人びとの「願い」と努力によって実現されたことです。」
という言い方ではなく、
「障害の有無にかかわらず、全てのいのちを救いたいという、人びとの「願い」と努力によって実現されたことです」
という言葉にすることで、
「いのちを救う」ことに何の区別をする必要もないのだという意味合いが込められると言うことなんですよね。

ブログ市長に反論したい、私の思いを伝えたいと考える余りに、
障害を抱えた方への視点が欠落していた、ということです。

ご指摘、ありがとうございました。

同時に、私の文章で傷ついたり、不快な思いをされた方に対して、きちんと謝りたいと思います。
本当にごめんなさい。

もし、これを読まれて、ご感想などがありましたら、
是非お聞かせ下さい。