岐阜教区布教団の、研修会。
今日の午後は、岐阜教区布教団の研修会。
写真は撮りませんでしたが、
教区内の布教使さんが集まって、総会と研修会を開催しました。
講師で来られたのは、中央相談員の季平さん。
中央教修でもお世話になっています。
過去の布教使研修会で問題提起されたことや、
今年9月に開催予定の研修会についての話し合いがなされ、
参加者より、いろんなご意見をいただきました。
そのまとめとして、季平さんのお話は、とても心に響きました。
「信心の社会性ということばも、反差別の教学ということばも、
どちらも、差別されている人たちの声から上がってきたことばです。
親鸞聖人のみ教えには差別はないんだ、と仰る僧侶に対して、
差別のないみ教えをよりどころとしているはずの僧侶が、どうして差別をしてきたのか、と。
つまり、僧侶の側が、み教えの真実性と現実生活を、
どこかで使い分けしているのではないか、という問いから発せられたことばなんです。
使い分けしているから、ダブルスタンダードになりますよね。
そして、教えを説くときと、自分の生活とは、ホンネとタテマエにわかれてしまう。
だから、何も新しい教学を作り上げようという作業なのではなく、
今までの教学理解が、差別を容認し、助長していたことを見つめながら、
なぜそうなったのかをきちんと理解し、そうならない教学理解とは何かを考えていく。
それは、教学理解の本来化であるはずなのです。
現実に差別を温存・助長してきた教学理解を、どのように反省し、構築し直していくのか。
私たちの現実生活のよりどころとして、阿弥陀様の願いをよりどころとした念仏生活があるのだとしたら、
そこから、物事を考えていく必要があるのではないでしょうか。
差別を恥じ、差別をなくしていきたいと願う私の行動原理は、
阿弥陀様の願いをよりどころとしているのだ、という立ち位置からこそ、
本当の教学理解への歩みがはじまるのではないでしょうか。」
かなり、私の恣意的理解が入った受け止め方ですが、
そんなお話しをいただきました。
非常に中身の濃い、ずしんと響く研修会でありました。