神通寺 住職の日記(旧タイプ)

2014年までの記録保存用です。

岐阜教区布教団の、研修会。

今日の午後は、岐阜教区布教団の研修会。
写真は撮りませんでしたが、
教区内の布教使さんが集まって、総会と研修会を開催しました。
 
講師で来られたのは、中央相談員の季平さん。
中央教修でもお世話になっています。
 
過去の布教使研修会で問題提起されたことや、
今年9月に開催予定の研修会についての話し合いがなされ、
参加者より、いろんなご意見をいただきました。
そのまとめとして、季平さんのお話は、とても心に響きました。
 
「信心の社会性ということばも、反差別の教学ということばも、
どちらも、差別されている人たちの声から上がってきたことばです。
親鸞聖人のみ教えには差別はないんだ、と仰る僧侶に対して、
差別のないみ教えをよりどころとしているはずの僧侶が、どうして差別をしてきたのか、と。
つまり、僧侶の側が、み教えの真実性と現実生活を、
どこかで使い分けしているのではないか、という問いから発せられたことばなんです。
使い分けしているから、ダブルスタンダードになりますよね。
そして、教えを説くときと、自分の生活とは、ホンネとタテマエにわかれてしまう。
だから、何も新しい教学を作り上げようという作業なのではなく、
今までの教学理解が、差別を容認し、助長していたことを見つめながら、
なぜそうなったのかをきちんと理解し、そうならない教学理解とは何かを考えていく。
それは、教学理解の本来化であるはずなのです。
現実に差別を温存・助長してきた教学理解を、どのように反省し、構築し直していくのか。
私たちの現実生活のよりどころとして、阿弥陀様の願いをよりどころとした念仏生活があるのだとしたら、
そこから、物事を考えていく必要があるのではないでしょうか。
差別を恥じ、差別をなくしていきたいと願う私の行動原理は、
阿弥陀様の願いをよりどころとしているのだ、という立ち位置からこそ、
本当の教学理解への歩みがはじまるのではないでしょうか。」
 
かなり、私の恣意的理解が入った受け止め方ですが、
そんなお話しをいただきました。
非常に中身の濃い、ずしんと響く研修会でありました。