神通寺 住職の日記(旧タイプ)

2014年までの記録保存用です。

青年布教使研修で、岐阜別院へ。ご講師は、石﨑博敍さん。

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岐阜別院、お昼のご法座をお聴聞して、
引き続き、青年布教使研修。
大阪教区の石﨑博敍さんをお招きしての研修会です。

テーマは、「布教の組み立てについて」なんだけど、
話し合いはちょっと違う方向へ。
結構、布教現場での悩みや出来事を語り合う中で、
自信教人信という深いテーマへと進んでいきました。
自分自身のご信心にまだ自信のない状況で、
布教現場でみ教えをお伝えする、という葛藤をかかえながらの自分は
どうしたらいいんだろう、という話も出ましたし、
日常生活の自分と、布教現場の自分の姿のギャップを感じている、
という話も出ました。

以下、石﨑博敍さんのお話。

「話し合い法座の経験の中で、
だんだん僧侶とか、布教とか言う肩書きが
要らなくなったというか、邪魔になってくるんですね。
もう、同じ一門徒として、共に聞かせてもらってます、
というスタンスでお座にでていくことに慣れているんで、
同じ目線で語ることが私のお座の特徴かも知れません。」
阿弥陀さんのことが、好きなんですね。
好きだから、その好きという気持ちを、
素直に喜びとして話すことが、私のご法話です。
阿弥陀さんのファンクラブの一員なんですわ。
まあ、もとはといえば、阿弥陀さんのほうが
先に私のことを好きになってくれてたんですけどね。」
「ご法話を聞かれて、悲しい気持ちになってしまう人が
いるとするならば、それは阿弥陀様のお働きに
泥を塗ってしまうようなことになってしまうのでしょうね。
たとえ話もそうでしょう。
あるいは、自慢話をしてしまってもおかしいでしょうね。
それは、話す側として気を付けないといけないことです。
で、話の中身はCASE-BY-CASEで、
最初からこれはダメ、あれはダメという話も窮屈でしょうね。
大切なことは何か、ということを恒に考えながら
話を組み立てていく必要があると思います。」