神通寺 住職の日記(旧タイプ)

2014年までの記録保存用です。

日帰りで、京都のご本山へ。6月の研修会に向けての打合せ。

午後からの会議のため、京都の西本願寺、ご本山へ。
6月に行われる、お坊さん対象の研修会の、最終打合せ。
到着すると、若いエネルギーで熱気むんむんでした。
まるで、30年前の私自身の姿を見ているような、そんな感じでしたよ。(^_^;)
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ちょっと専門的な話になってしまうのですが、
私たちの教団は、従来より「基幹運動」という形で、宗門の歩みを進めてきました。
「お念仏をよろこぶ真宗門徒である」はずなのに、そうなっていない現実。
「お念仏をよろこぶ仲間である」はずなのに、そうなっていない現実。
そこをきちんと見据えて、「本来あるべき姿に立ち返ろう」という思いで進められてきたのが、「基幹運動」です。
昨年、親鸞聖人750回大遠忌法要を機縁として、運動の中身と名称が変更されました。
ただ、従来の流れを継承しながら、新たなスタートを切るというはずの運動が、
「今までの運動はもう終わったのだ。これからは内向きの運動を終えて、宗門の社会的存在を確立していく運動にシフトしていくのだ。」
という理解が生まれつつあるようです。
 
正直に言います。
 
現実にある自分たちの立ち位置を忘れて、社会的な存在価値を確立しようとしたって、基礎工事を忘れた高層ビルのようなものにしかなりません。
高層ビルの理念を支えるのは、自分たちの現実をきちんと見据え、それをどう克服していくかという道程と理念を共有していくという作業が、絶対に必要なのです。
その作業は、ときには現場監督にとって、「耳の痛い」話になるのは当たり前でしょう。
耳が痛いから、毎回同じ話だからと言って、その進言に耳を貸さず、切り捨てながら、立派な建物を建てようという現場監督の下では、ろくな建物が建つはずはないということは、自明の論理です。
 
だから、中央実習という現場に携わるものとして、今回確認したのは、
同朋運動という、私たちのやってきた運動こそが、私たちの運動の基本的な支えである、ということです。
その視点を崩すことなく、これからの研修と運動をすすめていきたいと思っています。
 
ただ今回、一つ残念だったのは、受講生がお一人、辞退されたことです。
私が担当していた班の方でした。
とても感受性豊かで、素晴らしい感性を持っておられた方でしたが、「一身上の都合」ということでした。
本当に残念だけど、その事実は受け止めないといけません。
もしかしたら、彼の豊かな感受性にまかせて、私の力不足があったのでしょうか。
だとしたら、本当に申し訳ない限りです。
 
私のような末端の人間でも、今、本願寺が大きく揺れているのがひしひしと感じられます。
もっと中核におられる方々は、その揺れを実感しておられるのでしょう。
でも、どんなに揺れても、その足元だけは絶対に崩さないでいただきたいのです。
その足元にあるのが、同朋運動であることだけは、忘れないで欲しいです。
そこが崩れたら、私たちはもしかしたら「砂上の楼閣」になるのかも知れません。
それを、本当に危惧します。